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閉鎖病棟から解放病棟

保護室から閉鎖病棟に移っても幻覚はおさまりませんでした。
夜中に天井裏で作業を毎日している人が居ると言ってみたり、
夜中に病室の窓から脱走を図ったやつが居ると言ってみたり、
同部屋に薬物を精製して売買をしている人が居ると言ってみたり、
看護師たちが隣の部屋で騒いでいてうるさいと言ってみたり、
ナースセンターがダーツの矢で襲撃されたと言ってみたり、
グループミーティングではコンパニオンを呼んで酒盛りをしていると言って
「あのOBは断酒会ではなく飲酒会だ」と言ってみたり。
病院自体がホテルみたいな構造になっていて、
下の階では楽しそうに酒盛りをしていると言ってみたり。
夢と現実が入り混じり、どこまでが現実で、どこまでが夢なのかわからなくなっていました。
その症状は禁酒を始めてから1ヶ月以上は続いたと思います。
面会に来た妻には、それらのことを「誰にも言うなよ、バレたらヤバイから」
と本気で耳打ちしていたようです。
病院の看護師さんたちはとても親切で優しかったです。
各部屋ごと一人一人に小分けされた処方薬を飲ませてくれました。
たわいのないことでも、何でも話しかけて来てくれました。

閉鎖病棟に移ってから、ノートに記録を残すようになりました。
記録と言っても日付と曜日、トイレの回数、日々の日程表だけです。
今、手元にあるそのノートを見ていますが、
文字は震え、まるで小学校低学年レベルです。
間違いだらけで意味不明なことも書いてあります。
ノートの中の私は、保護室を別館、閉鎖病棟を本館と書いています。
面会に来てくれる妻のことが待ち遠しくてたまらないのか、
衣類や乾電池、身の回りの物やマンガ本などを注文票としてたくさん書いています。
携帯電話は没収されていたので、毎日廊下の公衆電話から妻に電話をしていました。
7時起床→朝食→服薬→自由→昼食→服薬→自由→夕食→服薬→自由→21時半消灯
風呂は週2回、こづかいは渡されませんでした。
無気力な私は、単調な毎日のタイムスケジュールに何の疑問もなく従っていました。

閉鎖病棟に移って25日目、何度も閉鎖病棟の中で何度も引っ越しを重ね、
ようやく解放病棟に移ることになりました。
その時点で本人は閉鎖病棟と解放病棟の違いに気付いていません。
言われるがまま解放病棟に移りました。

解放病棟に移ると、それまでの入院生活とはリズムがガラリと変わりました。
こづかい制、洗濯は自分で、朝食後のラジオ体操、中庭への外出可、毎日研修など。
リハビリ中の私の脳みそはパニックを起こしました。
研修中に大声を出して暴れ出し、「もう家に帰る!」と言って荷物をバッグに入れ始めました。
そこで私を止めに入った医師と看護師の会話が耳に入って来ました。
「解放病棟はまだちょっと早かったかな?」と。
そしてその日のうちに私はまた閉鎖病棟に返却されました。

返却されてからが長かった。
単調な日々に飽き飽きしていた私は、マンガ本を読み漁り、
ベッドに寝そべっては天井の模様と天井板を止めるビスの本数を数え、
トイレに入ってはタイル目地の本数を数え、もうすることが無いと思った時、
入院時に購入させられたアルコール依存症についての本(SMARP)にたどり着きました。
その時からアルコール依存症について猛勉強しました。
本の大事な部分にアンダーラインを引き、ポイントをノートに書き写しました。
その本を繰り返し繰り返し、何度も読みました。
そのうち頭の中がスッキリし始め、ノートに書く文字も正常に戻っていくのを感じることが出来ました。
そして閉鎖病棟へ返却されてから28日目、ふたたび解放病棟に移動することとなりました。

つづく。











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保護室(檻)

私はアルコール依存症で精神病院に入院する直前に「幻覚」を見たことがあります。
腹の調子を壊して、酒を2日ばかり抜いていたら、
夜、家の前の植え込みに身を隠すようにしゃがんでいる作業着を着たおじさんが座っていました。
私が「おじさん、こんなところに座って居ちゃダメだよ」と言うと、
そのおじさんは5メートルくらい横にまた座り込んでしまいました。
そしてまた私が「だから、こんなところに座って居ちゃダメだって」と強めに言いました。
おじさんはしきりに携帯を手に取りどこかに連絡をとっている様子でした。
家の外で何か叫んでいる私に家族も気付き、妻が外に出てきました。
妻に「どうしたの?」と聞かれ、
私が「いやーこのおじさんが座り込んじゃって出て行かないんだよ」
というと妻は「そんな人どこに居るの?」と返してきました。
私が「ほらっこのおじさんが、」と指を指すとそこには誰も居ません。
その後も懐中電灯を照らしながら家の周りを2人で探し回りましたが、もちろん誰も居ません。
それが始めての幻覚でした。
入院後も、酒が切れた私は夢と現実の狭間を何度もさまようこととなります。

血ヘドを吐き下血をして精神病院に連れていかれた私は、自分の力では立つこともできず、
車いすに乗せられ病院に入りました。
家から病院までの車中でも吐血が収まらなかった私はたぶん貧血状態だったのだと思います。
たぶん入院手続きをしていたのだと思うのですが、手が震えて自分の名前も書けません。
そして連れていかれたのが保護室、施錠された窓もない便器が一つだけの檻です。
隣の檻の中に居る人は手足を拘束され暴れながら何やら叫んでいます。
脳ミソが正常ではない私は、隣の人のことなど気にせず点滴を刺されながら眠りにつきました。
それからの数日間は記憶がありません。
しかし、見舞いに来た妻と私の姉に、
「ご苦労様です。どちら様ですか?」と、尋ねていたそうです。
妻と姉は泣き崩れたそうです。

自分か置かれている現実を理解し始めたのは、入院して4日目くらいからです。
そのあたりではまだ夢と現実がハッキリしておらず、壁掛け時計がライオンの顔に見えたり、
壁を蟻の大群が歩いているから殺虫剤を持ってくるように頼んでみたりしていました。
しかしなぜ自分が檻の中に居るのか?病名は何なのか?考える気力も体力もありませんでした。
点滴と食事のおかげもあって便の色も正常になり、体力も戻ってきたころには、
檻の中で消防団仕込みの行進の練習をしていたのを覚えています。

入院から11日、檻から解放され閉鎖病棟に移りました。
そこは6人部屋で、アルコール以外の疾患を持つ人とも一緒の部屋でした。
その頃になると、自分は酒が原因で入院しているということが理解できました。
でもその病院が精神病院だということは知りませんでした。
閉鎖病棟に移ってからのことは次回書くことにします。

つづく。








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アルコール依存症の完成

バブルは崩壊しました。
家に戻ってからは多忙と暇を交互に繰り返し、業績は安定しませんでした。
職人さんたちも高齢を理由に一人また一人と去っていきました。
現場で動けるのは私だけ、事務も営業も私と妻2人だけになりました。
まあ職人さんへの手間払いが無くなった分、赤字にはならなかったのですが。
一人きりなので、忙しくなると早出残業休日出勤は当たり前、
一方、それが切れると事務所にこもりがちになりました。
パソコンがあればいつ仕事をしても良くなり始めました。
そして家庭のことも子供たちのことも妻に任せ、
来客も電話も少ない夜間や休日に仕事をするようになりました。
一つ一つの仕事は利益が出ても、それが継続的にあるわけでもなく、
新規開拓や大手のような設備投資をする勇気もなく、波待ちの状態が続きました。

事務所では飲酒しないと決めていましたが、17時を過ぎると飲み始めるようになりました。
夏の暑い日には昼食と一緒にビールも飲むようになりました。
冬の寒い日には焼酎のお湯割りを飲むようになりました。
自分で決めたルールだったのに、それが徐々に崩れていきました。
飲んでいないと不安で押し潰されそうでした。
昼夜逆転が当たり前のようになり、事務所に布団を敷いて寝泊りするようになり、
食事とトイレ風呂以外には家に戻らなくなりました。
飲酒量も徐々に増えていき、入院直前には25度の焼酎を1日に4~5合飲んでいました。
仕事をしたい時にして、飲みたい時に酒を飲んで、その力で睡眠を取るようになりました。
3食取っていた食事も食べたり食べなかったり、風呂も入ったり入らなかったり、
私の生活は完全に荒んでいました。
人前に出る時には必ずマスクをして飴をなめガムを噛んでごまかしていました。
体中に消臭芳香剤をスプレーしました。
しかし、身体からにじみ出る酒臭さと風呂に入っていない汗臭さとで、
周りの人はさぞかし臭かったことでしょう。
講習会などに行っても昼食時に箸を使うと手が震えるのでいつもおにぎりでした。
文字を書くのも一苦労でした。
しかしその震えもトイレでグビッっと隠れ飲みをすると治まりました。
飲酒運転も日常茶飯事でした。
飲んでいても昼間ならば検問に引っかからない、飲酒運転の確信犯でした。
でもそれは単に酒の飲みすぎであって、アルコール依存症とは思っていませんでした。
そもそもアルコール依存症と言う病気の存在も知りませんでした。

消防団を退団したのもちょうどそのころです。
生活のリズムの変化と共に、仕事や家庭の不安が込み上げて来て、私は酒に逃げました。
24時間常に酔っぱらっているような状態となり、思考能力は低下し、体力も無くなっていました。
固形物を口にせず酒ばかりを飲んでいたので、栄養失調にもなっていたのだと思います。
身も心もボロボロでした。
目の前に見えているものが現実なのか?夢なのか?
そんなことさえも分からなくなっていました。

つづく。










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依存症への下地づくり 2

私が魔の集団「消防団」に入団したのは、実家に戻って間もなくでした。
私が戻ったということを聞きつけた現役消防団員の皆さんが家の玄関に居ました。
その面子を見ると、昔一緒に悪さをしていた近所の先輩たちでした。
「勧誘に来たぞ!親父には話し通してあるからな」と言われ、
その場で入団届に署名捺印。
訳も分からないまま私は消防団員になっていました。

入団して最初の練習日、消防団車庫に行ってみると見慣れた顔が。
それは頑なに入団を拒否し続けていた私の親友でした。
開口一番「お前が入るって言ったから入れさせられちゃったじゃね~か」と。
親友の同期入団は心強かったです。
その後彼とは20年以上、共に消防団生活を送ることとなりました。

噂には聞いていましたが、消防団の飲み方はすさまじかったです。
月に3回の練習、操法大会前の2カ月間は週3回、本番の火災、その他式典や行事の数々。
年間にして60日以上は自分と家族の時間を消防団に取られました。
消防団車庫は1階が消防車の車庫、2階が詰所という形になっていました。
2階に上がると一升瓶がズラリと壁を埋め尽くすように整列していました。
練習や行事の後には毎回日付が変わる時間まで飲んでいました。
私が入団したての頃は茶碗酒が主流で、ビールなんてハイカラな飲み物は有りませんでした。
先輩の中には「シェフ」と呼ばれる人が居て、毎回男の料理を振舞ってくれました。
当然皿洗い、片付け、詰所の清掃は勿論下っ端の私たちです。
まあ、そのおかげで今でも家での皿洗いは私の担当となっていますが。

一番激しかったのが旅行です。
日本全国消防団は悪評が高いです。
宿も消防団の名前を隠して偽名で予約します。(○○友人会とか)
出発時間に遅刻してはいけないと、前の晩から詰所で前夜祭、
バスに乗り込むころにはフラフラです。
高速に乗ってもすべてのパーキングでトイレ休憩、
一般道に下りてもバスを路肩に停めてトイレ休憩。
いつまでたっても目的地に着きません。
バスの中でも飲みっぱなし、昼食会場でも飲みっぱなし。
その勢いのまま宿に着いて、風呂で汗を流して部屋のビール。
ようやく宴会の時間に。
宴会の最中もその勢いは留まることを知りません。
ひとりまたひとりと沈没していき、ようやく部屋に戻って就寝。
自分の部屋にたどり着けず、エレベーターホールで夜明かしした人もいました。
がっしかし!
早めに脱落した先輩が復活して、早朝4時からのモーニングコール。
「おはよ~♪ さあ飲もうか?」
断ることもできずに朝宴会が始まります。
2日目も同じことの繰り返しで、昼食後にやっと寝静まります。
日も暮れてやっと家に帰れると思うのが間違い。
「さあ、慰労会だよ♪」と、バスは料理屋の駐車場に停まります。
旅行予定表を見ると驚いたことに、その慰労会まで予定に入っているのです。
しかし慣れというのは怖いもので、人間は順応性に優れた生き物なんですね。
旅行を重ねるごとに年々楽しみに変化していました。
2泊3日の時はさすがに辛かったです。
みんな2日目から胃腸薬を服用していました。

妻には、アルコール依存症になった諸悪の根源は消防団だといまだに言われています。

次回は精神病院入院中のことを書こうと思います。

つづく。












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依存症への下地づくり 1

私は幼少期から
「大人はお酒を飲んで楽しそうでいいな」
「タバコを吸っている人ってかっこいいな」と思っていました。
どちらも中毒性の高いものだとも知らずに。

私の家は自営業で、毎月末日は職人さんの給料日で飲み会。
集金の下請けさんもその時間を狙ってやってきました。
毎月末は10数名の人が酒を飲んでいました。
手間より酒のほうが高かった時代からの職人さんばかりなので、
いつもその日は大騒ぎでした。
小学生の私も、「ちょっと舐めて見な」と言われ、勧められるがままにペロッっと。
(酒って甘いんだな~、ビールって苦いんだな~)と、そのころから味だけは理解していました。

高校に入るとクリスマス、正月、部活の打ち上げは、
私の部屋で飲めない酒を持ち寄り、宴を開くようになりました。
部活のOB会の宴席にも学ランのまま呼ばれ、OBの家や割烹で飲むようになりました。
今の時代、そんなことをしてたら捕まっちゃいますよね。
そのころは、ただ単に大人の真似がしたくて、
吸えないタバコを吸いながら飲めない酒を飲み、それで満足していました。

一浪してようやく大学に入りましたが、理系だったので遊ぶ間も酒を飲む間もありませんでした。
大学を卒業して社会人になりいろんな集まりに出るようになってからは
酒の味を知り酒の楽しさを知っていきました。
その当時は家で晩酌はしませんでした。もっぱら外飲みでした。
入社したのが建設系で、尚且つバブル期ということもあり、
毎晩のように「夕飯食いに行くぞ~」と上司に言われ、居酒屋からスナックのハシゴでした。
会社に入って3年目のとき、国家資格取得のために1年間だけ禁酒をしました。

社会人となって6年、サラリーマン生活にも慣れ、仕事も楽しくなって来たころ、
突然実家の父が倒れたとの連絡が入り、会社とも家族とも話し合った結果、
後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く会社を退社し家業を継ぐことになりました。
長男が生まれると同時期に住んでいたアパートを引き払い、
妻子と共に実家暮らしがスタートしました。

仕事はまた1からの再出発なので覚えることも多く、田舎なので付き合いも多く、
寝たきりになってしまった父の代役も務めるようになり、
家で夕食を取るのは1週間に1度か2度となりました。

そして、時を同じくして入団したのが「魔の集団」と呼ばれる”消防団”でした。

消防団のころの話は後ほど書くことにします。

つづく。









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発病までの表向きの経緯

アルコール依存症が精神病だということを入院して初めて知りました。
そして自分のいる場所が精神病院だということには気付いていませんでした。
鉄格子の檻の中に居ることにも違和感を感じませんでした。
点滴に繋がれ、3食の食事と檻の中にある便器で排泄の繰り返し。
芯を抜いた使いかけのトイレットペーパーは自殺防止だったのでしょうか?

お酒は18歳のころ興味本位で飲み始め、23歳のころに味を覚え、
30歳のころには仕事に結びつくような飲み会に出会いました。
大学を卒業してサラリーマンを6年経験し仕事が楽しくなってきた矢先、
父が脳梗塞で倒れて、実家の家業を継ぐことになりました。

私には3人の子供がいるのですが、
最初の子供も生まれて半年経ったころの出来事でした。
その後父は15年間寝たきりになりました。
それ以来、父の代役で各種会合や役員会にも出席するようになり、
それに自分の集まりの飲み会も続き家族からは大ブーイングでした。
酒は周りの人も普通に飲んでいたので何の問題も無いという意識のまま飲み続けました。
家での晩酌は、夕食後に少しだけ飲む程度でした。

バブルもはじけて実家の仕事も減り始め、
営業をかけても新規のお客さんは見つからず、
設備投資しようにも、大手には到底かなわない。
商品の価格低下、人手不足など目に見えるほどでした。
会合も減ってきて家飲みが多くなってきました。
最初のうちは晩酌の酒量が少し増える程度だったのですが、
仕事の形態も変わってきて内勤が多くなり、
パソコンがあればいつ仕事をしても良くなり始めました。
そして家庭のことも子供たちのことも妻に任せ、
来客も電話も少ない夜間や休日に仕事をするようになりました。
昼夜逆転が当たり前のようになり、事務所に布団を敷いて寝泊りするようになり、
3食とトイレ風呂以外には家に戻らなくなりました。
事務所に酒を持ち込み飲むようになったのもそのころからでした。

仕事をしたい時にして眠りたい時に酒を飲んでその力で睡眠を取るようになりました。
3食取っていた食事も食べたり食べなかったり、風呂も入ったりはいらなかったり、
私の生活は完全に荒んでいました。
それが入院するまでの表向きの出来事です。
次回はアルコール依存症を自覚し始めた時のことを書きます。
つづく。










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プロローグ

もともと酒は大好物でした。
酒を断ってから既に3年が経過します。
精神病院退院後から現在まで、不思議なことに飲酒欲求が殆ど起きたことがありません。
その理由としては、アルコール依存症から重度の肝硬変になり、
強制入院となった時、死ぬ一歩手前であったことが挙げられます。

仕事上の悩みから鬱のような症状になり、朝、昼、晩、深夜と、
連続飲酒になりました。
3ヶ月ほどそのような日々を送っていたある日、
いつものように早朝から赤ワインを飲んでいると、突然猛烈な吐き気が。
窓から首を出して嘔吐。
赤ワインを飲んでいたので赤黒い液体が勢いよく噴射されました。
ひとしきり吐いてようやく落ち着いたころに第二波、第三波が。
嘔吐する液体がだんだん真っ赤になっていったのを覚えています。
そして次に便意に襲われました。
トイレに着くや否や、ズボンを下ろすと同時に下からも噴射。
便器に座りながら嘔吐(吐血)と、下痢(下血)を繰り返しました。
真っ赤になった便器を掃除し、失敗したパンツを窓から放り投げ、
いざ立ち上がろうとしますが足腰に力が入りません。
ほふく前進のように這いながらトイレから出たところで力尽きました。
その時の出来事は、断片的にしか記憶に無く、
後から聞かされた話に、妻に血まみれの尻を拭いてもらい、
妻からの連絡で駆けつけて来てくれた、近くに住む姉の車で病院に搬送されました。
その車中でも吐血は収まらず、バケツに顔を突っ込みながら1時間、
ようやく病院(精神病院)に到着。
訳も分からず即入院。
手続きをするときにも、離脱症状で手が震えて自分の名前すら書くことが出来ませんでした。
そして車いすに乗せられて着いた場所は、
鉄格子で囲まれ施錠された便器1つしかない保護室でした。
そこで私は倒れこむようにせんべい布団の上で点滴されながら眠りにつきました。
そのとき家族は「72時間以内に変化があれば命に関ることになるかもしれない」
と医師から言われていたそうです。

そうして、私とアルコール依存症との闘いの日々は始まりました。

つづく。


失踪日記 [ 吾妻ひでお ]



アル中病棟 失踪日記2 [ 吾妻ひでお ]



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